押入れの奥から、黄色い使い捨てカメラが出てきた。
真紀は段ボールの底でそれを見つけ、埃を払う前に側面の表示を見た。
残り、一枚。
「これ、どうする」
居間でコードを束ねていた直人は、すぐには振り向かなかった。輪ゴムが古く、伸ばすたびに白い粉が指へ付いた。
「現像すれば」
「まだ撮れるみたい」
そこで直人は手を止めた。
真紀はカメラを窓へ向けた。ファインダーの向こうには、庭の物干し台と、半分だけ切られた柿の木があった。シャッターには触れなかった。
本体の裏に、母の字で日付が書いてあった。
二〇〇二年、八月十四日。
その年、家族でどこかへ行った気がした。父はまだ車を運転していて、母は助手席から何度も振り返った。真紀は大学生で、直人は高校生だった。
どこへ行ったのかは、どちらも言わなかった。
冷蔵庫のコンセントを抜いてから、家は広くなった。音が減っただけなのに、廊下の先まで遠くなったように見えた。
真紀のスマートフォンが鳴った。新幹線の発車一時間前を知らせる通知だった。
「あと三十分で出る」
「うん」
直人はまたコードを束ねた。一本だけ、何につながっていたのか分からないものがあった。
真紀は黄色いカメラをテーブルへ置いた。
「お母さん、こういうの最後まで使わない人だったっけ」
「現像代がもったいなかったんじゃない」
「一枚のために二十年置く?」
「置いたんじゃなくて、忘れたんだろ」
真紀は返事をしなかった。
忘れた、という言葉がこの家には多すぎた。捨てなかったものも、連絡しなかったことも、病院で聞かなかったことも、全部あとからそう呼べた。
直人がカメラを持ち上げた。
「撮る?」
「何を」
「家」
真紀は居間を見た。
カーテンは外され、壁には四角く色の濃い場所が残っていた。座布団は一枚だけ、母が座っていた側が薄くへこんでいた。
「今さら」
「じゃあ現像だけ出す」
「残ってる一枚は?」
直人はカメラを裏返した。残数表示の小さな数字を親指でこすった。
「使わなくても現像できるだろ」
「できるけど」
真紀はそう言いながら、スマートフォンを取り出した。使い捨てカメラを撮ろうとして、やめた。
直人はそれを見ていたが、何も言わなかった。
母は写真を撮る側だった。
旅行先の写真には、父と真紀と直人が並んでいた。三人の目線が微妙にずれているのは、母がシャッターを押す直前まで何か話していたからだった。
母自身が写っている写真は、知らない人へ頼んだものだけだった。そういう写真では、母の肩だけが少し上がっていた。
「駅まで送るよ」
直人が言った。
真紀は時刻を確認した。
「タクシー呼べるから」
「カメラ、現像出すついで」
「今日やってる店ある?」
「駅前の写真屋、まだある」
真紀はその店を思い出せなかった。
直人はカメラをジャケットのポケットへ入れた。黄色い角が少しだけ出た。
玄関で靴を履くとき、真紀は柱の傷を見つけた。直人の名前の横に、鉛筆で引かれた線があった。その上に自分の線はなかった。
「私のは?」
「何が」
「身長」
直人は振り返り、柱を見た。
「姉ちゃん、自分で嫌がったんじゃなかった」
「覚えてない」
直人は、そう、とだけ言った。
外へ出る前に、真紀はもう一度居間を見た。何も撮らなかった。
車へ乗ると、直人のスマートフォンが現在地から駅までの道を読み上げ始めた。知っている道なのに、直人は案内を止めなかった。
信号で止まったとき、真紀が言った。
「最後の一枚、何だったんだろうね」
直人は前を見たまま答えた。
「まだ最後じゃないから、何でもないだろ」
駅前の写真屋は、看板だけが新しくなっていた。
直人は店の前へ車を寄せ、エンジンを切った。
家と同じように、車内から低い音が消えた。
直人はポケットからカメラを出した。
「撮る?」
今度は真紀が受け取った。
ファインダーの中に、運転席の直人がいた。真正面を向くように言う代わりに、真紀は窓を少し下げた。
「そのままでいい」
直人がこちらを見た。
真紀はシャッターを押した。
乾いた音がした。
何が写ったかは、まだ分からなかった。