LOOP 002

残り一枚

写真 家族 記憶

押入れの奥から、黄色い使い捨てカメラが出てきた。

真紀は段ボールの底でそれを見つけ、埃を払う前に側面の表示を見た。

残り、一枚。

「これ、どうする」

居間でコードを束ねていた直人は、すぐには振り向かなかった。輪ゴムが古く、伸ばすたびに白い粉が指へ付いた。

「現像すれば」

「まだ撮れるみたい」

そこで直人は手を止めた。

真紀はカメラを窓へ向けた。ファインダーの向こうには、庭の物干し台と、半分だけ切られた柿の木があった。シャッターには触れなかった。

本体の裏に、母の字で日付が書いてあった。

二〇〇二年、八月十四日。

その年、家族でどこかへ行った気がした。父はまだ車を運転していて、母は助手席から何度も振り返った。真紀は大学生で、直人は高校生だった。

どこへ行ったのかは、どちらも言わなかった。

冷蔵庫のコンセントを抜いてから、家は広くなった。音が減っただけなのに、廊下の先まで遠くなったように見えた。

真紀のスマートフォンが鳴った。新幹線の発車一時間前を知らせる通知だった。

「あと三十分で出る」

「うん」

直人はまたコードを束ねた。一本だけ、何につながっていたのか分からないものがあった。

真紀は黄色いカメラをテーブルへ置いた。

「お母さん、こういうの最後まで使わない人だったっけ」

「現像代がもったいなかったんじゃない」

「一枚のために二十年置く?」

「置いたんじゃなくて、忘れたんだろ」

真紀は返事をしなかった。

忘れた、という言葉がこの家には多すぎた。捨てなかったものも、連絡しなかったことも、病院で聞かなかったことも、全部あとからそう呼べた。

直人がカメラを持ち上げた。

「撮る?」

「何を」

「家」

真紀は居間を見た。

カーテンは外され、壁には四角く色の濃い場所が残っていた。座布団は一枚だけ、母が座っていた側が薄くへこんでいた。

「今さら」

「じゃあ現像だけ出す」

「残ってる一枚は?」

直人はカメラを裏返した。残数表示の小さな数字を親指でこすった。

「使わなくても現像できるだろ」

「できるけど」

真紀はそう言いながら、スマートフォンを取り出した。使い捨てカメラを撮ろうとして、やめた。

直人はそれを見ていたが、何も言わなかった。

母は写真を撮る側だった。

旅行先の写真には、父と真紀と直人が並んでいた。三人の目線が微妙にずれているのは、母がシャッターを押す直前まで何か話していたからだった。

母自身が写っている写真は、知らない人へ頼んだものだけだった。そういう写真では、母の肩だけが少し上がっていた。

「駅まで送るよ」

直人が言った。

真紀は時刻を確認した。

「タクシー呼べるから」

「カメラ、現像出すついで」

「今日やってる店ある?」

「駅前の写真屋、まだある」

真紀はその店を思い出せなかった。

直人はカメラをジャケットのポケットへ入れた。黄色い角が少しだけ出た。

玄関で靴を履くとき、真紀は柱の傷を見つけた。直人の名前の横に、鉛筆で引かれた線があった。その上に自分の線はなかった。

「私のは?」

「何が」

「身長」

直人は振り返り、柱を見た。

「姉ちゃん、自分で嫌がったんじゃなかった」

「覚えてない」

直人は、そう、とだけ言った。

外へ出る前に、真紀はもう一度居間を見た。何も撮らなかった。

車へ乗ると、直人のスマートフォンが現在地から駅までの道を読み上げ始めた。知っている道なのに、直人は案内を止めなかった。

信号で止まったとき、真紀が言った。

「最後の一枚、何だったんだろうね」

直人は前を見たまま答えた。

「まだ最後じゃないから、何でもないだろ」

駅前の写真屋は、看板だけが新しくなっていた。

直人は店の前へ車を寄せ、エンジンを切った。

家と同じように、車内から低い音が消えた。

直人はポケットからカメラを出した。

「撮る?」

今度は真紀が受け取った。

ファインダーの中に、運転席の直人がいた。真正面を向くように言う代わりに、真紀は窓を少し下げた。

「そのままでいい」

直人がこちらを見た。

真紀はシャッターを押した。

乾いた音がした。

何が写ったかは、まだ分からなかった。