LOOP 001

返信できない。

デジタル AI 返信

木曜日の朝、佐和は目覚ましを止めるより先に、スマートフォンを裏返した。

画面は見なかった。見なくても、誰から来ているかは分かっていた。

昨夜十一時四十二分。

真帆。

通知本文は非表示にしてある。だからロック画面には、名前と「メッセージが届いています」しか出ない。それでも、寝る前に一度開いた。既読はついている。

来月、結婚することになった。
直接言いたかった。

その下に、小さな犬が花束を抱えているスタンプが一つ。

佐和はベッドから起き、片側だけ開けた遮光カーテンの隙間を広げなかった。六月の光は、すでに部屋の床まで届いていた。

室内物干しから白いブラウスを外す。袖に少し皺があったが、アイロンは出さなかった。仕事で会う相手は、胸から上しか見ない。

冷蔵庫を開ける。

水。ドレッシング。卵が三つ。コンビニのサラダ。賞味期限は今日だった。

卵を一つ取り出して、戻した。

電車の中で、佐和は真帆とのトーク画面を開いた。

ピン留めされた名前が、いちばん上にある。大学を卒業してから、何度スマートフォンを替えても、その位置だけは変えなかった。

入力欄に文字を入れる。

おめでとう。

違う。

本当におめでとう。

消した。

びっくりした。

これも消した。

電車が次の駅に着く。後ろに立っていた人が降りるために、佐和は体を半歩ずらした。その間に画面を閉じた。

会社では、返信に困ることはなかった。

「昨日の件、先方確認中です。十五時までに一度状況を共有します」

「資料ありがとうございます。三点だけ確認させてください」

「承知しました。こちらで引き取ります」

送信。送信。送信。

午前十一時までに、佐和は二十七通のメールと十二件のチャットへ返した。返事の必要なものには、期限があった。相手が求めているものも分かっていた。

昼休み、同僚に誘われたが、佐和は「ちょっと銀行」と言って一人で外へ出た。

銀行には行かなかった。

駅前のコンビニで、冷たい蕎麦と無糖のカフェラテを買った。セルフレジの前で箸を一本取り、隣に置かれていたスプーンも一度持ち上げた。蕎麦には要らないと気づいて戻した。

会社の非常階段に座り、蕎麦の蓋を開ける。

真帆のInstagramを検索した。

検索欄には「maho」と入れる前から、真帆の顔が出た。佐和が見ないようにしていた数日分の投稿が並んでいる。花、レストラン、左手、白い箱。

開かなかった。

代わりにブラウザを開く。

親友 結婚報告 返信

候補に「例文」が続いた。

ずっと幸せでいてね。
自分のことのように嬉しい。
式を楽しみにしています。

どれも間違っていなかった。

佐和はカフェラテを飲んだ。ストローの先が、空になった容器の底で音を立てた。

午後二時、取引先とのオンライン会議で、佐和は笑った。

「そこは私が社内を説得します」

相手も笑った。

「頼もしいですね」

会議を閉じたあと、黒い画面に自分の顔が一秒だけ映った。佐和はすぐ別の資料を開いた。

午後四時十三分。

真帆から追加のメッセージはなかった。

催促されないことに、少しだけ助けられた。

催促されないことで、返せない時間がそのまま残った。

帰りの電車で、佐和はAIチャットを開いた。

親友から結婚報告が来ました。自然な返信を考えてください。

返答はすぐに出た。

「本当におめでとう!大切な報告を直接伝えてくれて嬉しい。二人の幸せを心から願っています。落ち着いたらぜひ詳しく聞かせてね」

佐和は最後まで読んだ。

コピーのボタンには触れなかった。

質問を少し変えた。

親友の結婚を素直に喜べないときの返信。

送信する前に、全部消した。

最寄り駅で降りる。エレベーターの閉ボタンを二度押した。一度目で反応していることは知っている。

部屋へ戻り、鞄を机の横へ置く。内ポケットから名刺入れを出そうとして、指に薄い紙が触れた。

大学の卒業旅行で撮った写真シールだった。

真帆は目を閉じて笑っている。佐和は目を開けたまま、口だけ笑っていた。

写真を見たのは数秒だった。

捨てずに、元のポケットへ戻した。

夕食は朝のサラダにした。賞味期限は今日までだった。卵は使わなかった。

真帆と色違いで買ったマグカップに水を入れる。佐和のは紺で、真帆のは黄色だった。黄色の方が真帆に似合うと、二人で同時に言った。

スマートフォンを机へ置く。

画面を開く。

真帆。

既読。

入力欄に、また文字を入れた。

ごめん、返事遅くなって。

消した。

おめでとう。びっくりして。

消した。

よかったね。

三文字目で止まった。

良かったのは、誰にとってだろうと思った。

真帆にとって。それでいいはずだった。

佐和はスマートフォンを伏せた。

洗面所で歯を磨いた。奥歯に力が入っていることに気づいて、口を少し開いた。

ベッドへ入ってから、もう一度画面を開いた。

十一時三十八分。

真帆から届いて、ほぼ二十四時間になる。

佐和は長い文章をやめた。

電話してもいい?

送信した。

送ったあとで、スマートフォンを伏せた。

返事はすぐには来なかった。

佐和は、画面を上に戻さなかった。