木曜日の朝、佐和は目覚ましを止めるより先に、スマートフォンを裏返した。
画面は見なかった。見なくても、誰から来ているかは分かっていた。
昨夜十一時四十二分。
真帆。
通知本文は非表示にしてある。だからロック画面には、名前と「メッセージが届いています」しか出ない。それでも、寝る前に一度開いた。既読はついている。
来月、結婚することになった。
直接言いたかった。
その下に、小さな犬が花束を抱えているスタンプが一つ。
佐和はベッドから起き、片側だけ開けた遮光カーテンの隙間を広げなかった。六月の光は、すでに部屋の床まで届いていた。
室内物干しから白いブラウスを外す。袖に少し皺があったが、アイロンは出さなかった。仕事で会う相手は、胸から上しか見ない。
冷蔵庫を開ける。
水。ドレッシング。卵が三つ。コンビニのサラダ。賞味期限は今日だった。
卵を一つ取り出して、戻した。
電車の中で、佐和は真帆とのトーク画面を開いた。
ピン留めされた名前が、いちばん上にある。大学を卒業してから、何度スマートフォンを替えても、その位置だけは変えなかった。
入力欄に文字を入れる。
おめでとう。
違う。
本当におめでとう。
消した。
びっくりした。
これも消した。
電車が次の駅に着く。後ろに立っていた人が降りるために、佐和は体を半歩ずらした。その間に画面を閉じた。
会社では、返信に困ることはなかった。
「昨日の件、先方確認中です。十五時までに一度状況を共有します」
「資料ありがとうございます。三点だけ確認させてください」
「承知しました。こちらで引き取ります」
送信。送信。送信。
午前十一時までに、佐和は二十七通のメールと十二件のチャットへ返した。返事の必要なものには、期限があった。相手が求めているものも分かっていた。
昼休み、同僚に誘われたが、佐和は「ちょっと銀行」と言って一人で外へ出た。
銀行には行かなかった。
駅前のコンビニで、冷たい蕎麦と無糖のカフェラテを買った。セルフレジの前で箸を一本取り、隣に置かれていたスプーンも一度持ち上げた。蕎麦には要らないと気づいて戻した。
会社の非常階段に座り、蕎麦の蓋を開ける。
真帆のInstagramを検索した。
検索欄には「maho」と入れる前から、真帆の顔が出た。佐和が見ないようにしていた数日分の投稿が並んでいる。花、レストラン、左手、白い箱。
開かなかった。
代わりにブラウザを開く。
親友 結婚報告 返信
候補に「例文」が続いた。
ずっと幸せでいてね。
自分のことのように嬉しい。
式を楽しみにしています。
どれも間違っていなかった。
佐和はカフェラテを飲んだ。ストローの先が、空になった容器の底で音を立てた。
午後二時、取引先とのオンライン会議で、佐和は笑った。
「そこは私が社内を説得します」
相手も笑った。
「頼もしいですね」
会議を閉じたあと、黒い画面に自分の顔が一秒だけ映った。佐和はすぐ別の資料を開いた。
午後四時十三分。
真帆から追加のメッセージはなかった。
催促されないことに、少しだけ助けられた。
催促されないことで、返せない時間がそのまま残った。
帰りの電車で、佐和はAIチャットを開いた。
親友から結婚報告が来ました。自然な返信を考えてください。
返答はすぐに出た。
「本当におめでとう!大切な報告を直接伝えてくれて嬉しい。二人の幸せを心から願っています。落ち着いたらぜひ詳しく聞かせてね」
佐和は最後まで読んだ。
コピーのボタンには触れなかった。
質問を少し変えた。
親友の結婚を素直に喜べないときの返信。
送信する前に、全部消した。
最寄り駅で降りる。エレベーターの閉ボタンを二度押した。一度目で反応していることは知っている。
部屋へ戻り、鞄を机の横へ置く。内ポケットから名刺入れを出そうとして、指に薄い紙が触れた。
大学の卒業旅行で撮った写真シールだった。
真帆は目を閉じて笑っている。佐和は目を開けたまま、口だけ笑っていた。
写真を見たのは数秒だった。
捨てずに、元のポケットへ戻した。
夕食は朝のサラダにした。賞味期限は今日までだった。卵は使わなかった。
真帆と色違いで買ったマグカップに水を入れる。佐和のは紺で、真帆のは黄色だった。黄色の方が真帆に似合うと、二人で同時に言った。
スマートフォンを机へ置く。
画面を開く。
真帆。
既読。
入力欄に、また文字を入れた。
ごめん、返事遅くなって。
消した。
おめでとう。びっくりして。
消した。
よかったね。
三文字目で止まった。
良かったのは、誰にとってだろうと思った。
真帆にとって。それでいいはずだった。
佐和はスマートフォンを伏せた。
洗面所で歯を磨いた。奥歯に力が入っていることに気づいて、口を少し開いた。
ベッドへ入ってから、もう一度画面を開いた。
十一時三十八分。
真帆から届いて、ほぼ二十四時間になる。
佐和は長い文章をやめた。
電話してもいい?
送信した。
送ったあとで、スマートフォンを伏せた。
返事はすぐには来なかった。
佐和は、画面を上に戻さなかった。