母から預かった父の財布は、思ったより軽かった。
改札前のベンチに座り、外側のポケットから交通系ICカードを抜く。カードの角は白く擦れていた。父はこういうものをケースへ入れなかった。診察券は全部同じ向きに揃えていたのに、毎日使うものだけは裸のまま持つ人だった。
券売機の前には、買い物袋を下げた女性が一人いた。彼は少し離れて待った。
八月に入ったばかりの朝で、駅の屋根の下にも熱が溜まっていた。首筋に汗が流れ、ワイシャツの襟へ入る。休みの日までワイシャツを着てくる必要はなかったが、母の前で手続きをする日は、なぜか襟のある服を選んだ。
女性が離れてから、カードを差し込んだ。
反応しない。
画面に、カードの向きを確認してください、と表示された。
裏返して入れ直す。機械が一度カードを飲み込み、残高と利用履歴と定期券情報を順番に表示した。
残高、三千四百八十六円。
定期区間、松川―県庁前。
有効期限、八月三十一日。
父が死んだのは七月二十日だった。
彼は画面を見たまま、右手で財布の外側を探った。カードはまだ機械の中にある。そのことに気づき、手を止めた。
画面の隅に、払い戻しについて、という小さな案内があった。窓口、本人確認書類、関係を証明するもの。詳細は係員へ、と書かれている。
今日中に終わると思っていた。
母には、残高を確認して解約してくる、と言って家を出た。母は食器棚の前に立ったまま、「電車のやつ、まだお金入ってるやろ」と言った。彼が頷くと、「ほな、それだけ頼むわ」と言った。
父の死後、母は頼むことを一つずつにした。
死亡届は弟に。携帯電話は姉に。銀行は彼に。仏壇の花は近所の人が持ってきた。
一つずつなら誰も断らないと、母は知っているようだった。
返却口からカードが出てきた。
受け取って、そのまま父の財布の外側へ差し込もうとした。途中まで入れたところで、手が止まった。
解約するために持ってきたものを、使いやすい場所へ戻す必要はない。
彼はカードを抜き、内側の札入れへ入れた。そこには千円札が二枚と、折られた理髪店のポイントカードがあった。十個のうち七個まで判が押されている。
窓口は改札の向こう側だった。
駅員に声をかけると、今日は必要書類が足りないので、後日もう一度来てくださいと言われた。父との関係が分かる書類と、父の死亡が確認できる書類。それから、申請書。
「定期は、まだ残ってますけど」
彼は言った。
駅員は画面を確認し、「今月末までですね」と答えた。
今月末まで。
それだけだった。
券売機を離れると、ホームへ上がる階段が見えた。父は週に三日、この駅から電車へ乗っていた。囲碁会がある日は十時前。病院の日はもう少し早い。帰りは決まっていなかった。
彼は父と同じ路線を二十年以上使っていたが、一緒に電車へ乗ったことは数えるほどしかない。
子どもの頃、海へ行ったとき。
高校の入学式。
あとは、母が手術をした日。
そのどれも、父がどこへ座ったかまでは思い出せなかった。
改札の前で、老人が一人、立ち止まった。ポケットを探り、反対側のポケットも探り、最後に鞄の内ポケットからカードを出した。後ろの人が少し避けて通った。
父も改札前で立ち止まった。
カードが見つからないわけではなかった。電光掲示板を一度見て、右と左のホームを確認し、それから改札を通った。何度来ても同じことをした。
彼はその癖を、今まで遅いと思っていた。
スマートフォンが震えた。
母からだった。
《終わった?》
彼は返信欄を開いた。
《書類が足りなかった。また来る》
そこまで打って、送信した。
すぐに既読がついた。
《そう》
母の返事はそれだけだった。
彼は駅の外へ出た。日差しが強く、歩道の白線が光っていた。駅前の理髪店は閉まっていた。シャッターに、夏季休業は十四日から、と貼り紙がある。
父のポイントカードを思い出した。
あと三つ。
だからといって、何かが惜しいわけではなかった。
コンビニで水を買い、レジ横の端末へICカードをかざしかけた。財布から出したのは、自分のカードだった。
音が鳴り、残高が表示された。
彼はペットボトルを受け取り、店を出た。
帰りの電車は空いていた。端の席が二つ空いていたが、中央へ座った。冷房の風が真上から当たり、汗の乾いた襟が首に固く触れた。
財布は鞄へ入れず、膝の上に置いた。
次の駅で高校生が三人乗ってきた。一人が端の席へ座り、残りの二人はその前に立った。笑い声が車内へ広がった。
彼は窓へ目を向けた。
途中駅のホームに、父が通っていた病院の看板が見えた。理髪店は反対側なので見えない。
財布を開き、内側へ入れたカードをもう一度見た。
有効期限は八月三十一日。
今日は八月二日だった。
彼はカードを札入れから出し、外側のポケットへ戻した。
帰ったら、必要書類を母に確認する。
それまでは、ここでいいと思った。