LOOP 003

父の定期券

死別 移動 手続き 季節

母から預かった父の財布は、思ったより軽かった。

改札前のベンチに座り、外側のポケットから交通系ICカードを抜く。カードの角は白く擦れていた。父はこういうものをケースへ入れなかった。診察券は全部同じ向きに揃えていたのに、毎日使うものだけは裸のまま持つ人だった。

券売機の前には、買い物袋を下げた女性が一人いた。彼は少し離れて待った。

八月に入ったばかりの朝で、駅の屋根の下にも熱が溜まっていた。首筋に汗が流れ、ワイシャツの襟へ入る。休みの日までワイシャツを着てくる必要はなかったが、母の前で手続きをする日は、なぜか襟のある服を選んだ。

女性が離れてから、カードを差し込んだ。

反応しない。

画面に、カードの向きを確認してください、と表示された。

裏返して入れ直す。機械が一度カードを飲み込み、残高と利用履歴と定期券情報を順番に表示した。

残高、三千四百八十六円。

定期区間、松川―県庁前。

有効期限、八月三十一日。

父が死んだのは七月二十日だった。

彼は画面を見たまま、右手で財布の外側を探った。カードはまだ機械の中にある。そのことに気づき、手を止めた。

画面の隅に、払い戻しについて、という小さな案内があった。窓口、本人確認書類、関係を証明するもの。詳細は係員へ、と書かれている。

今日中に終わると思っていた。

母には、残高を確認して解約してくる、と言って家を出た。母は食器棚の前に立ったまま、「電車のやつ、まだお金入ってるやろ」と言った。彼が頷くと、「ほな、それだけ頼むわ」と言った。

父の死後、母は頼むことを一つずつにした。

死亡届は弟に。携帯電話は姉に。銀行は彼に。仏壇の花は近所の人が持ってきた。

一つずつなら誰も断らないと、母は知っているようだった。

返却口からカードが出てきた。

受け取って、そのまま父の財布の外側へ差し込もうとした。途中まで入れたところで、手が止まった。

解約するために持ってきたものを、使いやすい場所へ戻す必要はない。

彼はカードを抜き、内側の札入れへ入れた。そこには千円札が二枚と、折られた理髪店のポイントカードがあった。十個のうち七個まで判が押されている。

窓口は改札の向こう側だった。

駅員に声をかけると、今日は必要書類が足りないので、後日もう一度来てくださいと言われた。父との関係が分かる書類と、父の死亡が確認できる書類。それから、申請書。

「定期は、まだ残ってますけど」

彼は言った。

駅員は画面を確認し、「今月末までですね」と答えた。

今月末まで。

それだけだった。

券売機を離れると、ホームへ上がる階段が見えた。父は週に三日、この駅から電車へ乗っていた。囲碁会がある日は十時前。病院の日はもう少し早い。帰りは決まっていなかった。

彼は父と同じ路線を二十年以上使っていたが、一緒に電車へ乗ったことは数えるほどしかない。

子どもの頃、海へ行ったとき。

高校の入学式。

あとは、母が手術をした日。

そのどれも、父がどこへ座ったかまでは思い出せなかった。

改札の前で、老人が一人、立ち止まった。ポケットを探り、反対側のポケットも探り、最後に鞄の内ポケットからカードを出した。後ろの人が少し避けて通った。

父も改札前で立ち止まった。

カードが見つからないわけではなかった。電光掲示板を一度見て、右と左のホームを確認し、それから改札を通った。何度来ても同じことをした。

彼はその癖を、今まで遅いと思っていた。

スマートフォンが震えた。

母からだった。

《終わった?》

彼は返信欄を開いた。

《書類が足りなかった。また来る》

そこまで打って、送信した。

すぐに既読がついた。

《そう》

母の返事はそれだけだった。

彼は駅の外へ出た。日差しが強く、歩道の白線が光っていた。駅前の理髪店は閉まっていた。シャッターに、夏季休業は十四日から、と貼り紙がある。

父のポイントカードを思い出した。

あと三つ。

だからといって、何かが惜しいわけではなかった。

コンビニで水を買い、レジ横の端末へICカードをかざしかけた。財布から出したのは、自分のカードだった。

音が鳴り、残高が表示された。

彼はペットボトルを受け取り、店を出た。

帰りの電車は空いていた。端の席が二つ空いていたが、中央へ座った。冷房の風が真上から当たり、汗の乾いた襟が首に固く触れた。

財布は鞄へ入れず、膝の上に置いた。

次の駅で高校生が三人乗ってきた。一人が端の席へ座り、残りの二人はその前に立った。笑い声が車内へ広がった。

彼は窓へ目を向けた。

途中駅のホームに、父が通っていた病院の看板が見えた。理髪店は反対側なので見えない。

財布を開き、内側へ入れたカードをもう一度見た。

有効期限は八月三十一日。

今日は八月二日だった。

彼はカードを札入れから出し、外側のポケットへ戻した。

帰ったら、必要書類を母に確認する。

それまでは、ここでいいと思った。